黒くぬれ

 
 
 

話題にしたくない2013年1月、アルジェリアでの出来事。

黒いカーテンで覆いたくなるよ、と話してくれたパリ在勤の友人とのBuzz Talk

 

アルジェリアは以前、フランスが支配していた、と書くとフランス人が怒るという。アルジェは自治区であり、フランス国、アルジェ県みたいなものだと。しかし、暴力的な抗仏戦争を描いた映画、「アルジェの戦い」を見る限り、そんなことよりアルジェに住む人たちから見れば、フランスへの思想の違い、宗教の違い、物質文明力の差からくる傲慢さだけが見えてしまう。官僚や評論家は手を汚さず本国、で引いた目で見るだけ。ベトナムに強引に介入したアメリカと同じ、帝国主義的発想だ。しかし、多くの近世における戦争はそうやって生まれてきたのは事実。

けっきょくフランスは、アルジェリアから撤退し、インドシナでは、ベトナムのディエンビエンフーで敗退し、徹底を余儀なくされた歴史がある。しかし、ハノイの官公庁のある裏手を歩いていると、コロニアル調の街並みが続きフランスの面影はいまだ残っている。西欧、アメリカ憎くし!の感情は当然今でもあるのだろうが、戦争が終わって35年以上。ベトナムでも戦争の風化が始まっている。

当時、そのハノイをニクソンの軍隊が空爆している。

 

スタンリー・クブリックがベトナム戦争を描いた「フルメタル・ジャケット」。同じベトナムでもオリバー・ストーンは「プラトゥーン」でジャングルでの戦いを描き、クブリックはフエのような街での市街戦を描いている。スナイパーとの息詰まる後半が終わり、若い兵士たちがミッキーマウスのマーチを歌いながら夜を行進していく。さしずめ日本なら、パーマンかドラエモンか

行進の途中で暗転になり、エンドロールが出てくる。イギリス人らしい?クブリックの選択なのか、流れるのはストーンズの「Pait it,Black(黒くぬれ)」。

 

I wanna see  paint it black
Paint it black, black as coal
I wanna see the sun blotted out from the sky
I wanna see ya paint it, paint it,
Paint it, paint it, black
I wanna see ya pain it, pain it
Paint it, paint it, black, yeah

 

黒く覆いたくなる気分は、このあたりの印象からも来ている、と友人はいう。

ヨーロッパに長くいるとそうなるらしい。

お前は?と尋ねられ、「目を背けると“バカの壁”になるから、無理してでも直視する」、と。

「日本人的かもな」、と言えば、「まあ、そういうな。いざとなったら逃げてしまう人間など、世界中どこの国でもいる」。「日本人だって同じだよ。潔く腹を切れた時代の武士は別として」。

 

ストーンズは当初ブライアン・ジョーンズがリーダー的存在だった。ジャン・リュック・ゴダールがストーンズの「Sympathy for the Devil」のアルバム制作を追いかけた映画、「ワン・プラス・ワン」。ミック・ジャガーが音楽的な監督として采配を振っている。が、やがてメンバーの中で孤立していくブライアン・ジョーンズをカメラが捉えている。ジョーンズは麻薬常習という問題が追い討ちをかけ、やがてストーンズを脱退。その一ヶ月後に死亡する。

この「黒くぬれ」でジョーンズは、シタールを弾いている。当時、インドに傾倒していったストーンズとビートルズ。ビートルズも「ラバー・ソウル」からシタールを取り入れた曲を演奏している。

 

ストーンズやビートルズを聞いていた時代。アジアでは大きな戦争があった。ベトナムやカンボジアに行ったのは、戦後15年くらい経過してからのこと。当時、海の向こうでの戦争は対岸の火事だった。社会に出て、問題意識が組織から世界に向けて行く中で芽生えていく。ジュリアナ、ワンレグボデコンで扇を振って踊っていた女性から、「アメリカは世界大戦に勝利し、ベトナム戦争でも勝利し、湾岸戦争でも勝利し、産業、音楽や芸術の最先端をいくすごい国だと」と聞き、扇を持った女性に対してでなく、ボクはジュリアナに幻滅したのだ。

だいいち、1975430日のサイゴン陥落の様子は外電でも伝えられ、アメリカ軍は這う這うの体でサイゴンから脱出し、そして会場で待っていた空母へ移る。着陸したヘリは次から次へと着陸するため海に捨てる。そんな映像を見れば、アメリカはベトナム戦争で勝利したとは誰も思うまい。勝利したのはベトナム人であって、扇を持った女性のいう文明国は地に落ちたのだ。

 

もうミッキーマウスの行進曲どころではない。

ストーンズの「黒くぬれ」の気分だったのだろう。

http://www.youtube.com/watch?v=waGTzO3qM_E

 

 

スカイプ使って、日本-フランス間 Buzz Talk 終了。

 
 
 

見慣れていく風景



理科は苦手だった。

だから、というわけではないけど、花の名前は多くは知らない。

星座もしかり。

今はなき渋谷駅前にあったプラネタリウムでは居眠りして先生に叱られた。

でも、立花隆氏の「宇宙からの帰還」には星座のことはあまり出てこず、何ども読んだ。

理解できない夜空も毎日眺めていると、少しずつ星の位置の違いがわかってくる。

そこに好奇心の原点があった。

 

日常の風景が見慣れてしまうと、記憶に刷り込まれるだけで、単なる事象となり感激が薄れるのがわかる。

見慣れるというより、好奇心への薄れが発生しているといったほうが正しい。

そこに存在するのは当たり前の事象で、自分には無関係だと認識してしまう。

この無関係を意識的に関係性へ置き換えると、無味無臭の生活感に一筋の光がやどる。

それが好奇心へのきっかけであろう。

 

ホームから見える線路に草が生いしげる。

東京にはない風景だ。

初めてここへ来たころは、なぜか放射能汚染の意識からは遠く、自然が新鮮に映り、

自分の存在などどうでもいいのだと思うこともあった。

今もそう変わらないが。

人間の意識とは無関係に、確実に変化する自然の摂理が小さな世界にもあったからだ。

 

昨日は、この高さまであった草は雨で身長を伸ばし、小さな花に囲まれている。

ポイントそばにあった黄色い花は、今朝は萎れて、いまにも地に帰ろうとしている。

風が吹いて、雨が降って、陽があたって、夜になって、、、、

微妙に立ち位置や表現を変えている。

 

見慣れている風景にも変化が存在する。

変化への意図的な介入が好奇心といってもいい。

 

自然界で絶対的なのは光の速さだけと言われている。

でも、絶対なんて存在しなくても、人が愛でる美しい自然さは、

相対であってもその人にとっては絶対なのかもしれない。

 

企業の再建とい重い仕事で福島に滞在する時間が長くなっている。

再生案件は好奇心がなければ出来ないと思っている。

なぜなら、企業が存在するコアは、机上の理念ではなく、人間の存在によって成り立つ。

人間への関わりを拒否することはできない。

好奇心させあれば人間との関わりは存続できる。

 

そこに疲れが存在しても、いっときのこと。

そこから逃げたら前には進まない。

だから侵食を忘れて取り組めるのだと思う。

 

見慣れた風景の中に、好奇心を蘇られせる原風景の存在を感じた。

 

 



 

自転車のススメ

 


週に1回か2回は自転車で通勤している。

自宅は多摩川に隣接したとこ。四谷までは片道18キロの距離。

 

ふだんは50〜80キロほど川沿いを走り、その距離に苦痛さはない。

川の道とは違うのは信号と車の多さ、それに伴う空気かな。

バスや大型トラックに追い越された時は防塵マスクが欲しくなるくらい。

 

走行リズムを狂わせる信号も困ったものだが、これは致し方ない。

車道は走り易い半面、右折車線のある場所は、左側の車線が極端にせまくなるので、

その分、車とも距離が接近する。大型車が停止すると、その間は通り抜け出来ないほど。

車と車の間をうまく迂回するか、歩道を走るしかない。

しかし、歩道は人間様専用。自転車が走るのは危ない。

 

以前、仕事でアムステルダムに滞在していて、

車、人、自転車の区別された道路をみて感動したことがあった。

市内の車道はほとんど一車線。

歩道と、そして車道に近い所に一間幅ほどの自転車専用道がある。

自転車道と知らない最初のうちは、チリンチリンと後ろから鳴らされたものだが、慣れてくると実に快適。

路面電車が走るエリアでは、車の存在は小さく感じられる。

 

 

アムス在住の日本人通訳は、こちらがバスで動くのに対して、彼女はいつも自転車。

自転車の方が早いから、そして動きやすいから、というのがその答え。

パリも自転車の有り方をめぐり、乗り捨て可能なシステムを導入していたが。まだまだ不備な感じ。

 

東京も震災以降、自転車通勤者が確実に増えている。

その割には、道路の整備は追いついていない。まだまだ自動車優先だ。

 

与えられた中で、いかに安全に楽しく乗るか。

ボクは、土曜日日曜日が休めないことも多く、自転車での遠走りがないと、

身体の新陳代謝が悪く感じるようになり、運動不足から体調不良を起こす。

そこで平日に乗ればいいわけで、通勤で使用するしかない、というのがその理由。

 

直行での営業や、帰りに酒を飲むときは電車。

それ以外は、疲労が蓄積していなければ、なるべく自転車を利用する。

電車より15分ほど時間が余計にかかるけど、風を受ける爽快感は代えがたいものがある。

 

それ以上に、身体の鍛錬とフィットネスにいい。

冬場は休業するせいかウエストは太くなるが、夏場にかけては3〜5センチは確実に細くなる。

定期健診では、「要注意」は無し、「注意」が3点。

この歳ならまあまあだそうな。

 

自転車も健康にいいいですよ。おススメ!

 

 

 

 

 

 


芝生の上の一期一会



弁当のLABを主宰している友人が、先の震災で旧赤プリに非難されている人たちと、
弁当を通じてコミュニケーションしたいと投げてきたので、手伝うことにした。

会場は、ミッドタウンの芝生の上。
当日は開催を危ぶむ大雨。
隣接する檜町公演の休憩所へ場所を移動しての開催。

芝生の上ではできなかったけど、いい時間が持てたな。

震災から2カ月。
被災されたゲストは旧赤プリから次の住居を探さなければという落ち着かない時期。
雨で参加者が少なくなったけど3組が参加。
自分のお弁当とゲストのお弁当を用意するホストの皆さんと会話が始まる。


震災後は鬱状態になっていて、ようやく前向きに考えられるようになったという女性。
GWに福島の永崎海岸周辺で、瓦礫と土砂の撤去作業をやった話をしたら、
その近くに住んでるの、と涙を流しながらお礼を言われたときには、さすがにジーンときた。

でも、神の悪戯で、ひょっとしたら自分たちが被災していあたかもしれない現実。
誰かが手伝う、それでいいのだと思う。


たかが弁当。
しかし、あの小さな器と着物は言った中身が、いろんな話を引き出すツールになる。
大学の先生、料理研究家、会社の社長、学生、通訳、陶芸家、主婦のかた、
さまざまな人が集まり、弁当を真ん中に、
一期一会のコミュニケーションが始まり、そして終わった。

こういう出会いは実に面白い。

お弁当での一期一会のコミュニケーション。
おススメです。




グー先生ブログ

主催者 FACEBOOK


行列する風景

 


ボクは、行列には加わらない性質(タチ)である。

2、3人並んでいるだけでも嫌なのに、数十人ともなれば気が遠くなりそうだ。

おいしい店だからと薦められても、並ばない。

かなり天の邪鬼に見られているかもしれない。

 

今日は週明けの月末。2月なので月末が短い。

でも、銀行には寄らなければならない。

案の定、そこは遊園地の乗り物を待つ風景に似ている。

ジグザグ4列・・・。

しょうがない、こういうときは我慢する。

 

後から入ってきた40代のビジネスマンは、行列を見て大きな舌打ち。

自分が舌打ちされたようで気分が悪いよね。

子供連れのお母さんは、カリブの海賊見たい!と、子供とはしゃぐ。

モバイルを見つめ続ける女性。

新聞を読む男性。

ボクは人間ウォッチング。

 

行列の人と人の間はちょうどいい具合だ。

日本人の適度の間とでもいうか。

駅のホームでは、その間が人の通行を妨げるときもある。

 

写真は昨年、文楽公演で上海へ行った時、控え室から撮ったもの。

中国の人って、夏でも人との間を空けずにビッシリ詰めて並ぶのには驚いたな。

ただ、ものを食っては路面に放るし、ツバは平気ではくし、まだお行儀の悪い人が多いかな。

並ぶのが嫌いだから、仕事で行ったきり、パビリオンを見る事は一切なかった。

 

千里の道も一歩から、という。

並ばないと得るものがないときもある。

たまには、銀行以外でも並んでみるかな。





「卑」への抵抗

 


 

「国鉄」という言葉が、笑ってしまいますが、たまに口に出てしまう。

 

仲間内なら笑われるだけだが、

学校なんぞで口を滑らせると、、、学生は「????」

 

そりゃあそうだ! 

国鉄が民営化されたのは874月。平成生まれの学生には分らん。

 

久しぶりに手に取った本。

「粗にして野だが卑ではない(そにしてやだが ひではない)石田禮助の生涯」。

三井物産代表取締役から国鉄総裁に就任した石田禮助が、国会に初めて出席した際、挨拶した言葉。

質素な生活をして、仕事では野人だが、権力にはおもねない。

 

当時、国鉄は従業員46万人。

今では考えられないほど、無愛想の典型的な駅職員、車掌、運転手・・・・。

サービスやホスピタリティなどというものは夢の、そして異次元の言葉であったろうな。

 

ストをやるための自由を求めるスト権ストに学生時代、遭遇した。

電車が何日も動かず、学校は休みとなり、レールに錆が浮き出てきていたのを思い出す。

期間が長かったわりには事前準備が周知され首都圏への影響は感じなかった。

かえって、ストライキ権を要求した公労協側に非難が集中し、とともに国鉄にもその矛先が向けられた。

サービスは悪い、働かない、何のための公営鉄道なのか。

自分たちの主張ばかりをして輸送するお客に目を向けない職員や経営者、そして組合に、人々は嫌気をさし始める。

それから10数年ほどして、そんな国鉄が民営化した。

 

石田禮助が総裁になった直後、「国鉄が今日のような状態になったのは、諸君たちにも責任がある」と、国会で言い張ったとき、彼は78歳。

本来なら引退し隠居している年齢であろう。

あえて頑なな国会議員に立ち向かったダンディズムの底にあるものは何なのか。

 

自宅のある国府津から国鉄本社まで電車で通い、給与も受け取らない。

 

権威は「卑」。

それに屈しなければならないくらいなら辞める。

安全への投資、人事の合理化、政治家の新幹線建設要求には反対、赤字路線は廃止。

当たり前のことをすることが不思議な時代は今に始まったことではないようだ。

 

天衣無縫ともいわれ、完全無欠さえ感じるさわやかな生き方。

さて、「何が」人のためにやろう!とさせるのか。

 

商社で仕事を尽くし、金も地位も名誉も必要なくなった人間の国への恩返しなのか。

日本への愛着に公営事業の傲慢さが危機という恐怖を与えているのか、、、。

 

先達の人間の業は計り知れないものがある。

世界と渡り歩き先見の目をもった人の意思には遠く及ばない精神世界がある。

 

公共の世界には肝っ玉が太く腹の据わった人の存在を身近に感じたいと思う、この頃である。

 









もうひとつの助六伝

 



歌舞伎を見たことのない人でも、歌舞伎に出てくる助六や勧進帳は耳にしたことがあるかもしれない。

助六は、団十郎家の歌舞伎十八番の一つに数えられ、正式には「助六由縁江戸桜(すけろくゆかりのえどざくら)」という。

 

花川戸(地名)の助六は侠客で、吉原では毎晩喧嘩を売って相手の刀を抜かす。

○○…、実は○○、、、歌舞伎や人形浄瑠璃ではよくある展開。

助六も実は曽我五郎で、毎晩喧嘩するのは目当ての丸を探すためだった、という設定。

そこに吉原の花魁、揚巻が登場。揚巻は全盛の花魁で、今は助六とはいい仲にある。

そこへ権力と金をかさに揚巻に言い寄る意休が子分を引き連れて吉原へ来る。

意休が抜く刀が助六の目当てと知り、助六は意休を討ち、刀を奪い、吉原から逃げる、という物語。

 

この助六は実在したといわれるが、聞く話どれもまことしやかでおもしろい。

 

花川戸、清川、清元で言う北州、つまり吉原など。

浅草を歩くと、歌舞伎や落語に露出する地名がたくさんあって楽しい。

花川戸から大通りを渡ると新仲見世。

少し歩くと、日本酒しか置いていない松風という店があった。

そう、、、建物はあったが、内装はビヤホールに変わっていた。

日本酒でちびちびやりながら、さっと話を切り上げて、うだうだ言わずにそく帰る。

そんな店も今は少なくなり、松風ならず若者が入りやすい今風になった。

 

伝統継承では、変わるもの、変わらないもの、変えてはいけないもの、変えなければならないもの、という4つの側面がある。

これらを時代の側面に照らしてきたからこそ今に残るそれぞれの伝統技がある。

この店も、やはり変わらなければならない、そういう時代の岐路に立ったのかもしれない。

 

 

浅草から吉原の手前、清川へ足を伸ばすと、昔、助六寺というお寺があった。

正式には日照山不退寺易行院といい、六代目の市川団十郎が助六塚を建立したことからそう呼ばれたという。

この寺の四男坊が、先般亡くなられた円楽師匠。

 

その円楽師匠の残した助六伝がCDに残る。

 

吉原での十年という年季奉公が済む花魁の小糸。彼女のもとへ通うのは親分まむしの意吉。

通いつめても色よい返事を意吉にしない小糸。

それもそのはず、彼女の腕には助七と名前が彫られている。

意吉が問いただすと、小糸は花川戸の下駄職人と答えてしまう。

 

所帯道具のたしにと、初めて賭場に出かけた助七を、まむしの意吉が番所に突き出し、そして小伝馬町の牢屋へいれてしまう。

意吉に金を渡された牢名主はリンチを繰り返す。

そして、助七は息を引き取る。

 

そうとも知らない小糸は、助七の家に。

 

絶望の中、小糸は助七の母と暮らし始める。

助七の墓も立て、やがて母親も亡くなる。

四十九日の墓参り。

あの、まむしの意吉が小糸の前に現れ、「所帯を持たないか」と詰め寄る。

どうか百箇日までお待ち下さいと、とその場を逃れるが、妙案もなし。

百箇日を迎えた日、晴れ着を着た小糸は助七の墓の前で、助七さん、お前さんのそばに行きますよ、と自害する。

寺の和尚がくると、あたりは血の海。

 

こんな世でも誠と真実のある花魁がいるのか、と江戸中の評判になったという。

やがて、戯作者が、助七を助六、小糸を揚巻にして、まむしの意吉を髭の意休として話を発展させたという。

 

「江戸桜心の灯火〜助六伝」。

歌舞伎の助六ではなく、助六寺の過去帳から人情噺を創作したもう一つの助六伝。

もうひとつの助六伝は落語の世界にあったのを浅草でふと思い出したのでありました。










避けては通れない


 

金曜日の夜、浴室で父が倒れた。

目立った外傷はないが頭部の打撃は致命的だ。

119に電話してから救急車が到着するまで20分。

救急隊が来たら彼らに任せるしかない。

 

数ヶ月前より食欲がなくなり、眠っている時間の多い日を過ごしてきた彼。

病院へ行くことを拒み、週2度の通所リハビリを楽しみにしていた。

体力がないのにリハビリへ駆り立てる気持ちは何であろうと考えていた矢先のこと。

 

救急隊員が症状を電話で伝える。が、受け入れてもらえる病院が見つからない。

その間、約30分。

ようやく隣の市にある救急病院が、入院は出来ませんが診るだけは、、、という条件付で、受け入れてくれた。

転んで顔に血痕をつけ、何度も同じことを繰り返すおばあちゃん。高い熱を出し泣き続ける赤ちゃんを抱いて不安そうな表情の若いご夫婦。数組の患者さんと、3組の救急隊員が忙しなく出入りする待合室。

 

半裸のまま毛布に包まれた父は痛いとも言わず、覚醒した表情を見せている。

CTを、そしてX線を撮り、診察。

 

「今のところ異常は見当たりません」。きっぱり医師は言う。

お預かり頂ければ精密検査をすることもできるのですが満床につき、、、と気の毒そうな表情をみせる。

つまり、「帰りなさい」ということだな。

 

さて、どうやって、家に連れて帰ろうかを考えていると、救急隊員の方も気の毒に思ったのか、他の病院を探してみましょうという。しかし、3つの病院をあたって頂くも、すべて満床や医師の不在を理由に断られる。

 

気持ちの整理をつけ、自宅に帰る旨を父親に話すと、にこりと笑う。

帰るのはいいのだが、まったく歩けない病人。

救急車は病院には輸送しても、自宅までは送らない。

車椅子を借り、救急隊員の方に手伝って頂き自家用車にようやく乗せる。

車を発車させてすぐに父が嘔吐。

救急隊員の方たちが駆けつけてくれ、ビニール袋やタオルを借りて処置。

救急隊に送られて出発するのも妙な気分だ。

しかし、これが老夫婦だったらどうするのか。

病院に来たはいいけど、帰ることになったら、、、と余計な心配をしてしまう。

 

 

そして金曜日の深夜から月曜日の朝までを、寝たきりの父親の介護で過ごす。

3年前、母が亡くなり、直後に頚椎の病気で手術し、以来同居してプチ介護をしてきたので、

苦にはならぬとタカをくくっていたが、本格的な介護となると、大変なものだと実感した。

 

その父の症状は回復するどころか悪化する一方。

病院へ行きたくないと頑なに拒否する父を説き伏せ、私だけ主治医へ相談しに行く。

すぐ紹介状を書いて頂き、救急車での輸送を手配し、病院へ。

 

曲の貧血に加え、肺炎、そして肺に水があるという。

金曜日の医師を攻める気は毛頭ない。医師にも専門分野がある。

当直での検査では詳細を見過ごしてしまう可能性は当然あるだろう。

病院が満床で受け入れられない事態のほうが深刻だ。

 

さて、入院して約二週間が経過。

医師には、癌を宣告された。

 

手術するべきか、手術せず抗がん剤を投与するのか、何もしないのか。

いずれかを選ぶ段階に入った。

 

 

酒好きの本人は、この期に及んでビールを飲みたいと言う。

毎日、ノンアルコールのビールを買って見舞いに行く日々。

お互いに、避けては通れない路を今、進んでいます。

 


ベルリンの壁

 



ベルリンの壁が崩壊したのはちょうど20年前の、1989年11月10日。
1986年、レーガンゴルバチョフがレイキャビックで冷戦の終結にむけ軍縮交渉を行った日から3年後のこと。


東欧では共産主義化された以降も市民グループが民主化に向け活発に動いていたものの、まだまだ共産主義の壁は熱く感じられていた。壁の崩壊を予測する人間などいない時代。

しかし、東欧諸国内の出入りは自由になっていた東独の人々は、いち早く国境の鉄条網を取り外したハンガリーまで南下しオーストリアから西独へ入国する人々が多くなり、東独政府も規制のある自由化を認めざるを得ない状態となったのが第一の壁崩壊の発端であろう。

その後、しぶしぶ東独政府が事実上の大幅な旅行の規制緩和を発表するにいたり、スポークスマンが誤って旅行自由化と発表し、そのニュースに狂喜した市民の手によって壁の破壊へと繋がる。まさに神の仕業とも思えるような偶然がいくつか重なった出来事でもあった。

 


東西冷戦の象徴と言われたベルリン市内を分け隔てた壁の存在。CNNの撮影した壁を壊すベルリン市民の映像をリアルタイムで見て、平和と自由の世界をふと想像した反面、大丈夫かな…、天安門事件のようにそのうち軍隊や戦車が出てきて壁の上にいる人たちを銃撃するのではないかという映像からの不安。
東独政府にはソ連傘下の共産主義国家体制を維持する力はもうなくなっていたのでしょうね、無血開城され東独の民主化は一気に進んだ。

同じ頃、チェコスロバキアでも無血の民主化が成立。ルーマニアでのチャウシェスクの独裁が流血をもたらした悲惨な民主化もあった反面、無血での政権交代も多く行われた。

 

1968年、東欧のある国にソ連の戦車部隊が大挙して首都を占拠した映像。
社会主義は労働者の楽園というコピーを何度も見ていたボクは、それが社会主義のソ連が社会主義のチェコに、民主化運動を止めさせるための軍事介入だと知り、楽園主義者が民主化を阻止する不思議な光景に、学生運動の吹き荒れていた当時のキャンバスにあったスローガンが無意味にさえ思われた。ベルリンの壁の出現でさえ、東側から西側へ亡命を希望する市民が多くなったのを阻止することから出来たもの。楽園を自ら楽園ではないと否定している現実がそこにあったからだ。ドプチェクさん率いるチェコの民主化の波は、プラハの春と言われた。しかし、ソ連は独裁者ブレジネフの陰湿な苛めをチェコ政府に押し付け、やがてプラハにソ連の戦車部隊が出現。

そしてプラハの春はプラハの冬に戻り暗い時代に舞い戻り、ドプチェクさんや民主化を主導した人たちは閑職へと追いやれる。

東京オリンピックの女子体操で金メダルを獲得した、ベラ・チャスラフスカさんも閑職に追いやられた一人。1964年の東京オリンピックという映画を小学校の講堂で見て、金髪の彼女の美しさに口を空けて見とれていたものだ。その4年後の1968年にはメキシコでオリンピックがあり、そこでもチャフラフスカさんは活躍。しかし、彼女の出入国や体操での得点をめぐって微妙な政治的背景が存在していたのも事実。彼女やドプチェクさんたちは粛清され、89年に共産主義が解体するまで市民権を剥奪されたような状況におかれる。民主化宣言を否定せず自分の考えを貫き通した彼女の美しさの中に、周囲が体制へと戻る中で精神を侵され、家族までも彼女から離れてしまう悲しみに包まれたような半生にふと心が痛む。


1989年、そのドプチェクさんが約20年ぶりにプラハの建物のバルコニーに顔を出したときの民衆の顔があまりにも美しく、自分の国のように嬉しく感動したものだ。

 

ベルリンの壁の崩壊からちょうど20年。小説や舞台のテーマでも取り上げられているプラハの春を思い出し、平和の日本の少しも変化していかない政治体制にやや不満や不安を覚える昨今であります。


33回目の秋





学生時代からいまだに続けているイベントがボクたちにはあります。現役の時代にゼミの研修旅行をどこにしよう?ということから始まったこのイベント。大学の講師は、ありきたり、与えられた研修旅行の姿を好まず、受講生たちもまたそれを好まず、「何か違う」ことに期待を持ち、研修旅行を点だけの姿から点と点を結ぶ線を楽しもうという発想に切り替え、そして実践してきました。気が付くと33年が経過し、一昨年の恩師の死が区切りを、終焉を我々に考えさせたこともありましたが、その区切り以後2回目が一昨日から2日間ありました。

 

ゼミキャンの延長線上ですから、講師と現役生が主役でOBはあくまでもゲスト。大学のセミナーハウスは門限や消灯時間があって面白くないから、民宿や貸し別荘、ロッジに宿泊、とうとう一度も使わずじまい。朝、東京を発ち、宿泊場所でセミナーや飲み会をやるのも楽しいのですが、それだけじゃあ、というので、目的地に着くまで安全走行で窓から見える景色や風景の問題や知識問題を解きながら、ゴールを目指そうというスカベンチャラリーの趣向を取り入れたのがウンの付き。方法はその都度アレンジされるものの、とうとう軸はぶれずに33回続いてしまいました。ただ、大きく変わったのは恩師が亡くなったことで、定年という事情も重なりましたが、現役生がまったくいなくなり、現在は参加者すべてがOBとなったわけです。

 

ひとりの大学講師が10人、50人、100人と、ヒューマン・ネットワークのきっかけを作り、有象無象の学生たちはやがて社会に出て素晴らしい個となりそして集団となります。昔のお嬢様たちは皴や染みが増えたものの美しく歳を重ね、頭の毛が白く心許無くなったオヤジたちは丸くなりました。そして32の後輩世代が生まれたことは何事にも代えがたいものです。30年前に初めて会った人、20年前に初めて会った人、それぞれはその時代の時間帯に現れては、消えることなく、時間が止まり時代だけが形を変えて過ぎていくように思えます。

30年間の時の重みは個人に還元されるものではなく、生きとし生けるものすべてに平等として与えられるのです。1分が1時間にも感じられる詰まらない時間を過ごすのか、1時間が1分にも感じられる相対論的人生の送り方が出来るかどうか、それは個人の資質にかかわってきます。

一昨年、そのネットワークの中核となっていた恩師の急死に有象無象は集団の継続か解散を考えるのですが、多くの者たちはその死を乗り越えて新しい形を作ろうと動いています。まだまだ何かが生まれてきそうな気配さえ感じます。それが長い間に培われてきたヒューマンなネットワークだからこそのものでしょう。

 

ある城址で33回目の秋を迎えました。自然を見ていると自分のちっぽけさがあらためて身に染みます。

時間が止ったまま進んでいく。世代を超えた集まりに入るたびに、そう感じます。






 ※城内を歩くと小さな杜がありました。栗の木々に覆われて暮らした当時の人々の生活が偲ばれます。いざという時のために栗の木々だったのでしょうか…、ついそんなことを考えてしまいます。余談ですが。


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