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杉本文楽 曽根崎心中

 



この曽根崎は、杉本博司氏が構成・演出・美術・映像を手掛けたもので、

近松門左衛門による文楽の初演を308年ぶりに復活するのが今回の上演意義になる。

 

文楽を見始めて25年ほど。仕事としてもかかわらせて頂いている。

以来、野澤松之輔師匠作曲の曽根崎は数えるのが億劫になるほど見させていただいた。

この曽根崎は、生玉社前の段、天満屋の段、天神森の段という構成。

お初と徳兵衛が死に行くまでの大筋の流れは変わらないが、

現在は上演されていない「観音廻り」が原曲の即して新たに登場している。

 

この世で二人が遂げられないのなら、あの世で成就する。

この想いはお初の観音廻りを見ることで、最後に心中へと向かうお初の気持へつながる。

いわゆる物語の伏線としての大きな存在となる。

 

 

文楽に限らず、歌舞伎も能楽も、出来た時代のそのままの形が上演されているとは限らない。

能など600年も続いた芸能では、その長い間に、時代が変わるたびに表現の変化が当然あったであろう。

文楽もしかりである。

過去に作られた曲が口伝によって300年も続くのは考えてみれば奇異なのかもしれない。

海外でもワーグナーのニベルングなど演出家が解釈を変え表現し続けている。

それであるからこそ文楽も歌舞伎も能楽も継承されてきたのだ。

 

 

今日は、新作劇を見ているような新鮮な気持ちがある半面、

現行の曽根崎を比較してしまう下劣な行動のはざまで、ややもすれば気持ちは混乱していた。

しかし、舞台は構成も演出も感心するほどだった。

本公演とは違い字幕が出ず、初めての箇所が多い浄瑠璃を聞こうとかえって集中ができたな。

 

舞台の奥行きの深さを上手に使い、書割の大道具を使用せず、シンプルな舞台づくりが立体感を与えている。

文楽独特の人形の存在する世界を区別するための手摺がないのは最初戸惑ったが、時間の経過とともに慣れてきた。

床は本来上手にあるもの。妹背山で下手に設置するイレギュラーはあるものの、

観音廻りは上手に始まり、生玉社は下手、天満屋は上手、そして道行は下手と、

おそらく進行上、そのような手段にいたったのだろうが、やってみれば違和感などなく、自然に受け入れられた。

 

人間国宝の三味線弾き、鶴澤清治師が天満屋でメガネをかけて演奏していたのは初めて見た。

本公演では、三味線弾きは楽譜を見ないで演奏するのが当然で、譜面台もない。

新作ということもあり譜面台がおかれていたことからも長丁場の曲ではメガネが必要不可欠なのは許容範囲かな。

 

幕のない劇場での公演は古典での演出を考えるとやりにくいのだが、

それらをすべて許容し、新しいスタイルを受け入れていく経過は師匠たちや若手の話を聞いて、

難しさと新鮮さが混在するマネジメントの妙味であると実感した。

「古典」が「現代」にフィットしていく様は、現代劇もやがて伝統として生き残る素地を耕しているのだと思うと、楽しい。

 

継承・普及・発展のキーワードは伝統文化の世界感の象徴。

その象徴は、具現化することでエンターテイメントとなる。

現代アートも古典なアートも、見る者を魅了できる資質があって初めて生き残る。

 

この新しい曽根崎が生き残る可能性はとうぜんある。

第一の復曲が1950年代、第二の復曲が2011年。

原曲の復活は今後さまざまな面で広がりを見せるかもしれない。

 

観劇しながら様々な想いと感情が飛び交ったこの“2時間半”はそうそう経験できるものではないだろう。

 

2011814日、15日、16日 神奈川芸術劇場

 






コメント
観たかったんですけどね・・・心残りです(笑)
  • ココ
  • 2012/03/15 11:07 PM
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