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表現の違いは

 
 
 
 

文楽の人形遣いの実力者が歌舞伎を鑑賞するのを奇異とするか、興味深いとするか、捉え方はそれぞれに自由。

ただし、文楽人形に生命を与える術は、歌舞伎や能楽から得られるものもたくさんあるわけで、否定しようがない事実でもある。

 

歌舞伎と文楽、その成り立ちは異なるものの、遠い時代に遡ればルーツは同じようなもの。

それぞれに影響を与え合い、文楽から歌舞伎に移した演目、またその反対もあり、この二つの芸能は生まれてから兄弟のような存在であったわけで、決して反目するものではない。

衰退しそうになった典型的な伝統芸能といえば文楽。その対照に歌舞伎があるといわれている。

明治時代、松竹は上村家より文楽の興行権を取得し、戦後まで年間5千万という大きな赤字を抱えながらも文楽の興行を維持し続けたが、私企業としての限界もあり、文楽を手放すに至る。その後、昭和38年に財団法人文楽協会が設立した経緯からも、文楽運営の苦労が伺い知れる。

歌舞伎は人間の演じる舞台劇。文楽は語る浄瑠璃をバックに人形が物語を演じる。

スター性は当然歌舞伎の方が強く、役者を見に行く歌舞伎に対して、文楽は物語を聴きにいく、または見に行くものだ。ましてや人間ほど大きくない人形は遠くからは見えない。しかるに上演する小屋は歌舞伎のそれより小さい。ゆえに興行収入も歌舞伎より器は小さい。そこに存続させる根本的な理由が存在してしまう。

 

そんなことを思いつつ、先日、浄瑠璃の名作である寺子屋を歌舞伎で鑑賞。
正式には、菅原伝授手習鑑、寺子屋の段という。

三つ子の兄弟の舎人の一人、松王丸の我が子との別れがテーマ。

 

松王丸の我が子を失うことで忠義を守る、悲しみと喜び、ふたつの感性を表現する手法の違いが興味深い。

心を表現するのはセリフと所作。
文楽は太夫の語りと人形遣いが所作で表現する共同作業に対して、歌舞伎は役者がセリフと所作を同時にこなして、役を表現する。

 

300年以上、人形はずっと同じ所作で伝えられたのかといえば、けしてそうではないだ。上演が途切れてしまった演目は復曲するにあたり、新作同様にすべてが作り替えられるからだ。何もなければ現在の所作を応用し、ないものは作っていく。同時に、歌舞伎の所作を取り入れ、文楽にあった工夫を施していったのだろう。歌舞伎もまた同様に文楽の所作を取り入れている。長い歴史の中でお互いが切磋琢磨し、それぞれに創意工夫し、次への時代につなげてきたのだろう。

そんな視点で見ていると、ふだん歌舞伎を多くは見ない人間には歌舞伎鑑賞も楽しくなる。
先日は、文楽人形遣いの桐竹勘十郎さんと一緒に歌舞伎を鑑賞して、鑑賞後の解説によって、歌舞伎と文楽の表現方法が実証され、確認ができた。

これも手法としての伝統芸能普及のひとつでもある。
そして我々の文化支援のひとつでもある。

 

 


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