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ベトナムでの仕事(1)






ベトナムを地図でみると、日本列島から北海道をなくしたような形を、そして大きさをしている。
1975年まで、朝鮮半島のように国が南北に分断され、その北と南で同じ民族同士の大きな戦争があった。
そのベトナムは、ソ連、中国、アメリカと大国の勝手な言いがかりに巻き込まれ、自国民数百万人が亡くなったと言われている、20世紀でももっとも悲惨な戦争を体験している。
1960年初頭から1975年4月30日まで、戦争の始まりはよくわからない。戦争とはそんなもの。
戦争終わりは、南の人は「南北統一が叶った」といい、北の人は「南を解放した」と表現した日でもある。
この戦争はマスコミが戦場に入り、まるで映画の場面に遭遇したような映像を送り続けた戦争であり、茶の間で見ることのできた戦争でもある。
戦後間もなく東西冷戦が姿を現した。ソビエトは隣国である東欧の国々を囲い込み共産主義の衛星国にした鉄のカーテン、1949年の中国共産主義国誕生がアメリカをナーバスにさせた。やがて、朝鮮半島ではソ連の傀儡となった北朝鮮が南に仕掛け戦争が勃発し東アジアでドミノ倒しのように共産国が増える懸念をいうドミノ理論より、インドシナ三国(ベトナム、カンボジア、ラオス)、タイ、マラヤ、ジャワが共産国化し、アメリカの自由主義に脅威を及ぼすことから、「共産主義から自由を守る戦い」からベトナムに介入したとみる考え方。
帝国主義から民族を解放するという側面は現実的にあった。
中国をはじめ東アジアは列強の帝国主義に蹂躙され、植民地化された国民たちは煮え湯を長い時代飲まされ続けてきた、ベトナムでは、若きホー・チ・ミンがフランスで学び、祖国へ戻りベトナムそしてインドシナで蜂起を訴え、当時ベトナムを支配していたフランス軍と勇敢に戦い、フランスを追い出すことに成功した。
東西冷戦、民族独立など、今となってみれば理由を結論付けられるのだが、ベトナムに限っていえば、フランスからアメリカに対戦国が変わり、アメリカには適当な理由はあっても、ベトナムにとっては自由を勝ち取る戦いに違いはなかった。
ベトナムの植民地化された歴史は長く、1887年フランスがインドシナ半島全域(カンボジア、ベトナム、ラオス)を植民地化したことに始まる。先の対戦末期に日本がアジアに侵攻し、一時的にベトナムをフランスから解放した。この件りは、確かに欧米列強から開放したのがアジアの民族であったと歓喜されたようだが、収穫したコメなど農産物を強制的に日本軍が奪い、ベトナムに餓死など大きな被害をもたらされたことが伝えられている。戦後、日本が敗戦により引き揚げると、フランスが再び統治をはじめるようになる。独立を宣言したはずのベトナムは、再びフランスと対峙し、1954年、ディンビエンフーでの戦いでフランスに勝利したベトナムはようやく独立を勝ち取ったかに見えた。
そこへ、アメリカが混乱のさなかにフランスの代わりとして南側だけを統治し始めたのだ。極度に共産主義化を恐れたアメリカは、北緯17度線を境に、いずれベトナム全土で統一選挙を行うことを約束したが、その統一選挙の実施を反故にし、やがてサイゴンに傀儡政権を樹立し、キューバのように実質的支配を続けていく。
ホーチミンをはじめ祖国を愛してやまない人たちは長い時間をかけて犠牲をだしてまで、南北統一を目指すことになる。
悲惨な戦争の種を蒔いたのはベトナムではなく、アメリカそのものなのである。
1960年アメリカ大統領になったケネディは、小規模な顧問的軍事団を駐留を容認していたが、1963年になるとベトナムから兵の撤退を考え始めていた。
ところが、産軍一体化した巨大な陰謀軍団は、第一次世界大戦でヨーロッパが疲弊しているころ、軍需産業によって国は富を得、のし上がって様を経験し、90年代のネオコンと呼ばれた人間たち同様、戦争がそこにあれば巨万の富が発生する事実を保守派は見逃すまい
黒人解放の公民権運動と絡み、ケネディは保守の地ダラスで暗殺され、副大統領からのし上がったジョンソンはベトナムへの派兵を増大させ、その数はケネディの時代の数千から最大50万以上となり、「偉大なる社会」を訴えた大統領は泥沼の戦争へと人々を導いていったのだ。
始まりは不明確。しかし、大きく戦争へ舵を取るには、それなりの理由が必要なのは、湾岸戦争やボスニアへの空爆、最近のシリア情勢、ベイルート情勢を見れば一目瞭然。
とうとうアメリカはトンキン湾で、駆逐艦がベトナムからの砲撃に遭遇し、自由のために闘うことを理由に、余計な介入へと進んでいく。証拠として挙げられた事実から、トンキン湾での砲撃はなく、でっち上げだったことが分かったのは後のこと。
湾岸戦争、イラクに侵攻されたクエート市内にある病院の看護師が涙ながらに悲惨な状態をアメリカの公聴会で訴えたシーン。それも後から判明した事実は、その女性は駐米大使館職員の娘だったという嘘。サウジアラビアでは、イラク軍がサウジ国境に到着していると写真を見せてファイサルに伝えた事実もやはり嘘だったことが判明。
嘘で固めた大義名分がなければ何も動かない大国に翻弄された側の人間はたまったものではない。
アメリカのカリフォルニア州よりも面積の小さい国ベトナム。
第二次世界大戦中に落とした爆弾の総量の何十倍もの爆弾を落とし、巨額の軍事費を使用し、一部の人間たちに富をもたらし、枯葉剤使用や神をも恐れぬ兵器を開発し、繰り返される北爆、やがてはソンミ村大虐殺という血塗られた歴史までを作ってしまう
1975年4月30日の続々と入る外電から、アメリカは追い詰められた撤退をしているのが手に取るようにわかった。後日、アメリカ大使館から順にヘリを飛ばし、航空母艦へ運び、そのヘリは戻らず海中へと捨てていく映像をみた。身の危険を感じて集まってくる群衆を大使館には入れず、無理やり入ろうとする人に威嚇したり暴力で応えた映像。ひっ迫する退去の状況が、文字通り真実だったのを理解する。
この戦争でアメリカには何が残ったのか。
本当に自由が保てたのか、考えても結論を導き出せない。
日本がこの戦争に大きく加担していたのは当時は多くは語られていなかった。国内の基地から輸送機や備品、兵士が前線に送られ、死んだ兵士の遺体は日本で処理され本国に戻される。
オイルを輸送し、戦争車両を作り、戦争用品を作り外貨を稼ぐ日本。ベトナム特需は現実に存在した事実でもある。
日本人はもっと、この時の戦争を、そして第二次世界大戦中にインドシナを侵略し、たくさんの餓死者を出した責任の存在事実をもっと知るべきであろう。
こういった情報は、ピューリッツァー賞を受賞したディビッド・ハルバスタム「泥沼からの脱出」、最良のブレインであったはずのケネディと周囲の人間たちがなぜベトナムへ軍事介入失敗を犯したかを追及した「ベスト&ブライテスト」、石川文洋カメラマンの書籍、開高健「ベトナム戦記」、 プラトーンなどオリバーストーンのベトナム三部作映画、WGBHボストンの記録映画を通して理解したこと。 
ベルリンの壁が崩壊するきっかけとなったのは、ソ連にゴルバチョフが登場したからと私は思っている。
国内の改革はペレストロイカと呼ばれ、やがて東欧の国々が民主化を遂げていく。
同じ頃、中国やベトナム、ラオスなどアジアの共産主義国の中でも、ベトナムが「ドイモイ」と称する改革を始めていた。
1992年から3年ほどベトナムの地を踏んだが、共産主義特有の役人主導の改革には限界もあったようだが、市場経済システムを導入してから近年は、世界最貧国と言われた時期を脱しつつあり、経済的には大きな変革期を迎え、市場経済の荒波に揉まれている。
そんな国へ赴き、仕事を始めた。
(続く)

 
※写真は1992年頃のハノイ旧市街

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