曽根崎心中





「曽根崎心中」は醤油屋の手代徳兵衛が友人に騙され馴染みである曽根崎の遊女お初と天神森で心中する事件を元に、近松門左衛門が短時間で書き上げた人形浄瑠璃です。当時、経営に行き詰っていた竹本座はこの作品が大当たりして、一気に座を黒字経営へと転換させただけでなく、人形浄瑠璃隆盛のきっかけともなった作品ともいえます。時代は元禄16(1703)、赤穂浪士の討ち入りのあった年のこと。しかし、心中する者が多発するなど社会現象となるにいたり、1723年に幕府は曽根崎の上演を禁止し、心中した者の葬儀を禁止するなどの措置をとった。以来、昭和30年まで人形浄瑠璃文楽での曽根崎を見ることはなかったという作品でもあります。復活上演は歌舞伎に先を越されたものの、三味線弾きの野沢松之輔師が作曲し、現在に至っています。

 

浄瑠璃作者はあの近松門左衛門。近松は103編の戯曲を書き、その内時代物は79、世話物は24となっていて、世話物の内心中物は13を数える。近松イコール心中物という概念はこのあたりにありそうな気配だが全作品の1割が多いかどうかは判断を皆様に委ねたい。江戸時代からみて過去の時代を描いたものが時代物、現在の時代背景で描いたものが世話物といい、いわゆる庶民にスポットを当てたものを世話物という。庶民にすれば、身近な話題のものが小屋に掛かるので親しみが涌くというもの。よく、テレビのワイドショー的と称されるのもこの所以だろう。

 

2月の文楽は、吉田簑助師匠の文化功労者顕彰記念と銘打ち、簑助師匠がお初を演じる曽根崎心中が夜の部となる三部制の公演。一部、二部とも連日多くのお客様が詰め掛けていた。17日間の公演、三部はすぐ完売という状況。お初を簑助、徳兵衛を桐竹勘十郎というコンビ。以前まで、吉田玉男、簑助コンビで長年ファンを涌かせ続けた作品は、文楽の女形人形には足を付けない仕来りを破り、初めて女性に足を付けさせた点でも興味深い。

 

そう、女形の人形には足がついていないのである、文楽では。天満屋の段では、軒下に隠れた徳兵衛に素足を出し、自分も一緒に死ぬと初は徳兵衛に自らの意思を表し、徳兵衛は足首で喉を掻き切る仕草で応えるシーンが床本にあり、観客に訴えるのは足が必要であろうという発想からこれは生まれたもの。

 

文楽は様々な時代の流れに身をおき、伝えられ、そして応用や変化を加えながら伝承されてきた芸能でもある。伝統芸能というと作られたときのものをそのまま受け継いだという意識を持つ方もいらっしゃるだろうが、果たしてそうではなく、変化しながら今に伝えられている。そこに、古きよきものと新しいものが融合して、次へと伝えられていく。

 

今回の曽根崎心中をご覧になられて、感動してしばらく椅子から立ち上がられずにいた、という女性の声も多く頂いた。近松作品の野中でも初期の作品で、近松にありがちな複雑な人間関係もなく、友人と思った男に騙され金を取られた男に遊女が自分の身も心も捧げ心中するという、純粋な気持ちが全編を覆っているからに違いない。

 

さて、次に簑助師匠のお初を見られるのはいつになるだろう、、、。





心中天網島



1703年、お初・徳兵衛の物語「曽根崎心中」から17年経過した享保年間の1720年、同じ曽根崎新地紀伊国屋の遊女・小春と、天満の紙屋治兵衛が、網島にあった大長寺にお参りした後、淀川へ身投げした事件を元に、近松門左衛門がその年の12月に竹本座にかけた浄瑠璃が「心中天網島(しんじゅうてんのあみじま)」。

 

その人形浄瑠璃がこの11月(2009年)にも大阪国立文楽劇場でも舞台に掛かり多くのお客様が来場され、近松作品の人気を垣間見ることが出来ます。

女房子供のある紙屋治兵衛は、遊女・小春と深い仲。女同士の義理、商人としての意地、親子の情愛を紡ぎながら、最後は女房を捨て、小春と情死行に至る経緯を描いた作品。遊女へ一途な想いを伝えたかと思えば、女房の力に感謝し一生守ると宣言する。ついには愛人との情死。愛人にうつつを抜かし、自分を裏切った夫を男にするために奔走する女房の姿に浪速女の心意気が。それに引き換えあっちへフラフラこっちへフラフラのダメンズ亭主、治兵衛。

 

治兵衛と小春の物語という趣よりもむしろ女房のおさんのほうが立ち役っぽい。成金の太兵衛に小春の身請け話を持ち出され、治兵衛は屈辱感から心中を思いつめる。治兵衛が死ぬ!と感じたおさんは小春に亭主を殺さないで、と手紙を書く。小春は、治兵衛には愛想をつかしたと芝居をうち、女同士の義理を貫こうとする。しかし面目を潰された治兵衛の立場を思い、太兵衛を見返すために、治兵衛に身請けの金を用意してやる。やがて、義理と人情のはざまで…。近松は治兵衛と小春に人間の弱さ儚さを、おさんに強さを描こうとしたのではないかと思えます。



この紙屋治兵衛と小春、おさんの物語は篠田正浩監督により1969年にATGで映画化されています。ATGとは「日本アートシアター・ギルド」。1961年に映画館を誕生させ、当初は良質の洋画を上映していましたが70年代には映画を数多く製作するようになり、大島渚、篠田正浩、寺山修司、若松孝二ら、低予算でも斬新で趣向を凝らした芸術的映像が作られていきました。

今日、この映画をレンタルで久しぶりに鑑賞。初めて観たのは高校生のとき。すでにカラーの映画が多くなり始めた時期にあってモノクロの映像が不気味に臨場感を漂わせる。武満さんの音楽も浄瑠璃と噛み合う独特な雰囲気。浮世絵、巨大な文字壁セットなど粟津さんの美術も迫真です。文楽っぽく黒子を登場させて、岩下志麻、中村吉右衛門にまとわりつかせ、かえってリアリティをもたせている。小春を刺し殺した治兵衛が首を吊るラストシーンでは黒子が鳥居に紐をかけるなど切迫した気持ちと自分での本意とは異なる天の声によってあの世への道を進む意図が垣間見られるようで食い入って見てしまいます。

 

何が彼にそうさせたのか、現代ならその切り口を求める評論家も多いだろうに、と想像しつつ、当時の元禄時代にあって、虚構と現実の流れの中に身をゆだねた一人のアホで浅はかな男の生と死を、中村吉右衛門さん、小春とおさんの二役をこなした岩下志麻さんの演技が圧巻。

 

古典の名作をここまで現代的に消化させ表現した作品はそう多くは見られないと思う。そういう意味では多くの古典作品から題材を取りメガホンを取られた篠田監督の力量を40年経過しても感じるのであります。いいものは時代を経ても強烈な印象を与え続けるものだというのを改めて実感します。

 

ATG「心中天網島」【予告篇】


 


ワークショップ 〜伝えるということ



東京池上にございます池上実相寺さんで、7回目の「文楽ワークショップと鑑賞会」を開催しました。

文楽普及のお手伝いを理念に、吉田簑太郎さんが三世桐竹勘十郎師を襲名したのを機に始めさせて頂き、7回目を迎えることができました。会場となる実相寺さんご住職夫妻の寺子屋活動に共鳴し、ここなら続けられるだろうという意思のもと、はや7年。第1回目は寺子屋での文楽ということで数社の新聞社が取材にきてくれるなど話題にもなり、70名弱のお客様が来場されました。出演の皆さんも意気に感じて些少の出演料でスタートしたにもかかわらず赤字でのスタート。3回続けばいいかなァと内心思っておりましたところ、あっというまの7回目。不思議な感がします。あくまでもワークショップが主体。鑑賞はほんの一部に過ぎませんが、来るお客様は一様に文楽の面白さが伝わってきて楽しかったと仰って頂けます。ありがたいことです。限られた予算、毎回ほぼ同じ出演者、同じ会場、、、マンネリ化は避けられません。勘十郎さん、鶴澤燕三さんなど、固定のメンバーの協力はもちろん、お客さんを楽しまそうという意識や情熱があったからこそと思います。また、本舞台における各人の技術が認められ勘十郎さんの襲名のほかにも、燕二郎さんが六世燕三さんを襲名されるなど、嬉しいこともありました。

 


本来は、公演など本舞台を見ていただくのが一番。古典の解説はそれを知る人間には時に無粋に映り、不要なものです。しかし、古典芸能は敷居が高いと思う方も多い昨今、敷居は決して高くはないのですが、技術や中身を公開して目の前に曝すことで身近さを感じて頂ける、コミュニケーションツールの一つでもあります。粋な伝え方もあれば俗っぽい伝え方もあり、その場の聴衆の傾向をいち早く察知することの大事さを痛感します。この日お越し頂いたお客様にも文楽三業の特色に触れていただきました。個々のレベルの格差はあるのですが、それぞれに感じていただけ何かが伝わったのではないかと思います。この何かというのは、時に暗黙知であり、時に形式知になります。言葉では理解できずとも感覚により会得したものかもしれません。また、具体的に技術を理論的に理解されたかもしれません。

 

伝統はただ守るだけではなく、時代時代で新しいものを取り入れながら今に伝えられてきました。伝えられたものを守り通すだけならおそらく文楽も歌舞伎も能楽も、その他の伝承的なものはひょっとして無くなっていたかもしれません。継承され普及し、発展しなければ流れはそこで止まります。時代の流れを意識し、継承、普及、発展を繰り返していく。そこに伝統という意味が浮かび上がってくるのです。

 

技術を継承する人々。継承されたものを芸術として認知し周囲で鑑賞する人々。これらの接点を設けて、相互の交流を図るのがワークショップの存在であるとボクは理解しています。伝えることの手段としてのワークショップ。8回目、9回目と続けられるよう切磋琢磨し、工夫していきたいと願っています。

 

 



 


歌舞伎観劇会

 


日本の文化には数限りないコンテンツが存在しています。うちでは事業の柱に「文化」というキーワードを意識し、能楽、文楽、歌舞伎、舞踊などの古典芸能は出来る範囲の中で様々な形で支援する活動を行っています。中でも、主催する東京文楽会もそのうちの一つ。人形浄瑠璃文楽は能楽や歌舞伎に比べ、ユネスコの世界遺産にも宣言されたわりに、文楽をまだ体験されていない方が多く、まだまだ普及の必要があるからです。

 

さて、先日は文楽ならぬ、国立劇場での歌舞伎の観劇会を行いました。「京乱噂鉤爪」…、「きょうをみだすうわさのかぎづめ」と読みます。昨年一作目に続いての上演で、原作は江戸川乱歩。ご承知のように本来は現代劇なのですが、江戸時代の混乱する幕末期に時代を置き換えて構成しています。明智小五郎は探偵から同心に変わり、人間豹恩田乱学と対決。幕末期に往生する公家や幕府の人間たち、怪しげな陰陽師が物語の軸を揺さぶり、「ええじゃないか、ええじゃないか」と乱舞する当時の民衆運動を重ねながら物語は進行していきます。故今村昌平監督の「ええじゃないか(1981)」という幕末混乱期の下層民のエネルギッシュな姿を描いた映画を劇中で何度となく思い出しては映像を記憶から取り出してしまいました。

 

乱歩歌舞伎という視点、歌舞伎の新作で、古典とは違い現代語に近い台詞回り、花道の上を飛ぶ宙乗りはよく見ますが会場内を斜めに宙乗りする筋交宙乗りなど、随所にアクション場面が盛り込まれていて楽しませてもらえる要素は盛りだくさん。幕間を挟み3時間弱の上演は間の抜けた時間も感じられず観劇された方は満足されたようです。

 




 さて、今回は観劇と併せて、終演後にバックステージツアー(舞台見学)を実施しました。これも普段まずは上がることのない舞台から客席を眺め、舞台機構や大道具などを見学するものです。

大劇場から観客が引く誰もいなくなった劇場に入り、スリッパに履き替えて花道から舞台へ進みます。役者の気分です!と仰るお客様も。

舞台に上がると盆と呼ばれる回る部分に乗り、一周します。メリーゴーランドみたい!と感想される方も。大道具も薄い表面的なものから立体的に作られた建造物のようなものであります。


 



三味線や鳴り物を担当するスタッフのいる黒御簾を見学してから、いよいよ奈落へ降りて参ります。奈落というのは梵語で地獄のことをいいます。暗くジメジメした酷い場所のことをいいますね。昔の劇場はコンクリートなどなく、土の上に舞台を立てその下の暗くジメジメした場所で舞台を人力で廻したりしました。世間様から顔の見えない仕事に就く事情のある人が担当した場合もあったそうで、そこから奈落(地獄)という言葉が舞台で定着したのでしょう。誰にも見られず仕事を黙々とこなすことから「縁の下の力持ち」という言葉もここから来ていますね。

 






そして、花道の七三の位置にあるスッポンへ。ここは籠の無いエレベーターのようなもの。衣装が複雑だと危険が多いとされる場所。花道を使わない舞台のときは花道を下げ、客席を上げます。そして階段を上がると、花道からの出番を待つ鳥屋(とや)へと出られます。





こういうバックステージの見学も歌舞伎普及の一環であります。古典芸能など文化は身近にあるはずのものなのに、敷居が高いものと見られています。普及の目標、着地点の設定は難しい判断でありますが、まずは多くの人が見られる状態を作り、高過ぎず低過ぎずの気持ちを忘れないことだと思っています。少しずつ、伝統文化に触れていただく機会を提供して多くの方々に喜んで頂きたいものです。

 

 


 


「テンペスト」文楽版 (平成21年9月)

 



8月の大阪公演に続いて東京での上演、劇場版チラシのあらすじは以下の通りです。

「嵐で流された一艘の御座船。船に乗っていた筑紫大領一行は南海の孤島に漂着します。筑紫大領らは森をさまよい、一行とはぐれた大領の息・春太郎は島の娘・美登里と出会い、恋に落ちます。しかし、すべての出来事は、大領によって国を追われた阿蘇左衛門の壮大な復習だった…。妖精や魔法が登場する不思議な物語が展開するロマンス劇「テンペスト」―このシェークスピア最期の大作を、舞台を中世日本に置き換えて浄瑠璃に翻案し、平成四年に初演された「天変斯止嵐后晴」が、装いも新たに九月文楽公演に登場します。」

 

文楽版邦題は、「天変斯止嵐后晴」、原作はウィリアム・シェイクスピア。イギリスの作家シェークスピアは、欲望や権力、野心、裏切り、殺人、、、という人間の煩悩の奥底にある深い根を、壮大なテーマで挑んだ作品が多く、中期の「オセロー」「リア王」「ハムレット」「マクベス」は四大悲劇として知られています。創作は1592年から活動をはじめ1612年頃に引退するまでの約20年間で、このテンペストの創作は最晩年といわれています。日本ではよく比較される浄瑠璃、歌舞伎の作者と知られる近松門左衛門は1683年「世継曽我」で世に出て、1721年「女殺油地獄」の上演後の翌年に亡くなり、国は違へど同時代の有名作家として二人は研究対象となっています。

 

このテンペストの翻案、実は20年ほど前に、新宿のグローブ座で上演されていて、拝見させて頂いていて、それ以来の上演、本公演(国立文楽劇場、国立劇場での公演)では初めてのことです。今回、大阪で、そして東京で拝見し、シェークスピア劇の文楽版を堪能したわけですが、8月の大阪での上演以来、作品として賛否両論あり、様々な意見をファンの方々からお聞きしました。かつ自分自身でも、素の状態での感想をいくつか持ちました。シェークスピアを意識して観劇するのか、文楽として観劇するのか、文楽を初めて観劇するのかなど理由により、捉え方、感じ方は広範に異なることが判りました。

まず、文楽ファンとしての意見の多くは、「古典を昇華させた上での新作!という意識から時期尚早という声」、「時代物なのか、世話物なのか、まったく新しいカテゴリーなのか戸惑うという声」、「文楽の舞台美術にはかつてない新しい創造性の希求による違和感がありという声」、「シリアスな復讐物語とロマンス劇との構成上の違和感」などなどであります。観劇した方にはそれぞれ感想があるのは当然で、何度も衰退を経験し消滅の危機を迎えては乗り越えた文楽への思いもあると思います。

文楽版テンペスト、作曲者として鶴澤清治師匠の音楽と構成は聴くに値する素晴らしいものです。本来の浄瑠璃の言葉ではなく判りやすい台詞ということもあり、太夫の分かりやすさ、音楽の深さはシェークスピア、文楽という枠を超えた上質な作品の礎とさえ感じるのです。ただ、人形のデザインや舞台装置など、技術があるにもかかわらずその技術を生かしきれていなかったことが残念です。ロマンス劇なのかメルヘンなのか、シリアスなのか、その意図によって表現されるべきものが、全ての要素が入り混じり、原作への混乱を与えてしまっているように思えました。妖精や魔法使いは原作に登場します。何を意図としてデザインされるのか、南海の孤島はどのように表現されるのかなど、はその具体例です。大阪でのデザインと東京でのそれは、いくつか相違点もあり改善されていたように思います。しかし、衣装、キャラクターデザイン、舞台美術など限られた予算の中での最上化は新作の場合、特に必要なものです。古典は今までのものを踏襲していく方法、しかし小さな変化は当然あります。新作は、その気概がさらに必要なのではないかと思います。テンペスト、十分に楽しめる舞台でした。お金を出して見る価値は十分にあります。しかし、古典芸能の域はこうだ!と自分の意思を持たれた方には残念ながら「フン!
」と言われてしまったのも事実ですが、それは致し方のないこと。歌舞伎の「十二夜」をこれは歌舞伎ではない!と仰るのも致し方のないこと。様々な考えがあって、見る側の自由があって、見られる側の捜索があるのですから。

 

シェークスピア劇を日本に置き換えて翻案するのは、時代背景など加味しても不自然では決してありません。マクベスは舞台でも日本の時代物に置き換えられ幾度となく上演され、1957年には「蜘蛛巣城(1957)」として黒澤明監督が映画化しています。「十二夜」は歌舞伎として蜷川演出により国内で上演され、ロンドンでも上演されたことなどから証明されています。

どうせなら、シェークスピアの翻案を新作として、いくつか作るのも文楽の賭けであるかもしれません。しかし、復曲や古典の通しなどを望む声が圧倒的に多いのも事実。その狭間で文楽の将来がかかっています。時代は変わり、見る側の意識も変化する、そんな中で伝統を存続させる難しさを改めて考えさせられました。





文楽公演(平成21年9月)

 




三部制の文楽公演の第二部は、「伊賀越道中双六、沼津の段」、「艶姿女舞衣、酒屋の段」、時代物と世話物の二番です。沼津は1772年(天明)、酒屋は1985年の初演で、同時代的な作品です。

 

沼津は、東海道の宿場ごとにエピソードをはさんで展開する全10段の長い物語。様々な人間たちの悲喜交交が情感たっぷりに描かれています。全段のヤマ場となる「沼津」は、浮世の義理や情から敵同士に別れた親と子の苦悩が描かれる浄瑠璃の傑作狂言です。文楽では、物語を語る太夫の真価が問われる曲といえましょう。「仇討ち」の情感を描きつつ、武家の世界観から時代に翻弄される親子や若い人たちを引き裂く、仇討ちの空しさを視点から避けることなく描いています。ヨレヨレになった平作が娘の恩人のために切腹し、その心にほだされて敵に伝わると知って秘密を明かす十兵衛。ここは太夫の実力がものを言います。平作、お米、十兵衛、をそれぞれに語り分けていく技術に上手い大夫であれば観衆はいつのまにか引き込まていきます。

沼津は近松半二、近松加作の合作。近松半二は二代目竹田出雲に入門し、竹本座の座付作者となり、近松門左衛門に私淑して近松半二を名乗った作家です。私淑というのは、直接に近松からは教えを請うてはいませんが、尊敬し師と仰ぐ精神をいいます。「日高川入相花王」「奥州安達原」「本朝廿四孝」「近江源氏先陣館」「傾城阿波の鳴門」「妹背山婦女庭訓」「新版歌祭文」「伊賀越道中双六」など今でも頻繁に上演される名作を数多く手がけています。そして、この伊賀越の執筆中に死去しています。

半二は若い時分は遊蕩生活を送っていたようです。「独判断(ひとりさばき)」という随筆もあるのですが、近松門左衛門ほど資料は残されていないのが残念です。初演された1783(天明3)年は、将軍家治のというより、田沼意次の時代。田沼の政治の特徴は重商主義です。株仲間という座を作り、同じ商売の仲間を集め、株仲間の一員でなければ商売ができないという特権 を与えられ、彼らの売上から賄賂みたいな冥加金を幕府に献上する方法を生み出した人でもあります。商業と都市重視の政治は農民からの反感が強かったようです。明和の大火や、浅間山の大噴火などを因として天明の飢饉へと続きます。飢饉が発生し百姓一揆が頻発し、農民たちは田畑を捨てて都会へと逃げ、都市部では民衆が蜂起し、不正を働いたと思われる人物の家屋を破壊する打ちこわしが頻発しました。伊賀越が書かれたのは、まさに天明の飢饉の最中。民衆は政治に期待できず、まるで京都の街中を焼かれた応仁の乱で行き場を失った庶民のように、不条理な気持ちを持ったまま、混沌とした閉塞感を持っていたのでしょう。荒木又衛門の仇討ちは1630年頃ですが伊賀越の物語は14世紀に置き換えられて描かれています。

元禄時代は上方文化。赤穂浪士の討ち入りは1703年、上方で爆発的なヒットを飛ばした世話物の代表的浄瑠璃「曽根崎心中」も1703年。文化は花開くものの幕府の政治力は次第に落ちていきました。綱吉から家継、吉宗、家重へと将軍は代わり、老中が政治を担う次代。不穏な時代に育った半二。時代物、世話物に関係なく、人間を柱とした重厚な物語を書いています。こういう時代だからこそ書けた作品もあるでしょう。そう思いながら作品を鑑賞しますと、舞台の面白さが広がります。

 沼津の段。竹本綱大夫、竹本住大夫、二人の人間国宝が語ります。人形は、十兵衛に人間国宝吉田簑助、平作は桐竹勘十郎。

酒屋の段は沼津より10年ほど後に上演されています。酒屋に嫁いだお園さん。その半七は三勝という芸人に入れ込み、子供までいる始末。仕舞に殺人までやらかしてしまい、半七の父、半兵衛は番屋に呼び出されてしまう。実家に戻されていたお園。彼女の父はお園を見かねて酒屋に戻そうと、酒屋に二人で訪れる。半兵衛はお園があまりにも可愛そうなので、戻るのを許そうとしません。父と舅の義理と人情の狭間で、お園は心をいためます。自分の心情を吐露するクドキは女形人形遣いの桧舞台。見応えがあります。それにしても文楽に出てくる男はこうまで情けないのかと、呟く声が聞こえてきます。
お園の人形を遣うのは人間国宝、吉田文雀。床の切は豊竹嶋大夫。






地歌舞伎のおもしろさ

 

 

 

岐阜県の東部、土岐、恵那、中津川に挟まれた中央線沿線の町、瑞浪。この東濃地方では、地元の歌舞伎、地芝居とも農村歌舞伎とも言われてきましたが、素人さんの演ずる歌舞伎の盛んな地域であります。歌舞伎を行う古い芝居小屋も多く、近年は、不定期ですが大歌舞伎や文楽も行われるようになりました。大歌舞伎というのは、東京の歌舞伎座や京都の南座、大阪の松竹座で行われる歌舞伎のことをいいます。

この瑞浪市に、現存していた二つの古い芝居小屋を保存のために移築し、合体再建築した相生座という年齢約120歳の芝居小屋があります。この小屋は、普段は美濃歌舞伎博物館として公開もされていますが、年に2回、地元の人による地歌舞伎が開催されています。

 

ボクはご縁がありまして、2008年よりこの相生座さんで、歌舞伎ならぬ人形浄瑠璃である文楽公演を手がけております関係で、3年ほどの間に20回ほど通いましたが、行く度に、その小屋の圧倒的迫力に魅力を増すのを感じます。

 

さて、この地芝居、地歌舞伎の面白さは何と言っても素人さんの実演にあります。何ヶ月も時間をかけて稽古を重ね、一銭の報酬もなく、黙々と与えられた役割を果たしていくのです。歌舞伎を教えるのは、様々な方々で、昔から代々教える家として継承されてきた方もいらっしゃれば、口伝されて来た形を見よう見真似で教えるスタイルも現存するのです。テレビもビデオもなかった時代は口伝しか方法がなく、その場で音や所作を覚えるしかありませんでした。相生座でもその地方で歌舞伎を教えるお家として継承されてきた師がいらっしゃって、この暑い夏のさなかでも汗だくになられて教えておられました。昔、大歌舞伎に携わった衆が上方や江戸を離れて地方に散らばり、その地方の中に芝居が溶け込んでいきました。人形浄瑠璃のために書かれた浄瑠璃は、歌舞伎でも演じられ、また地方に伝わっていきます。その過程で、少しなりとも手を加えて地元で受ける筋書きに手直ししたものもあり、大歌舞伎ではこんな演出はしないよ!というのではなく、歴史的背景からその地方の文化を知る上で、中央から地方へ流れていった伝承の系譜を垣間見られると思えば、地歌舞伎が楽しいものにみえて参ります。

 

昨年、初めて観劇させて頂きましたが、おひねりが飛んだり、そのおひねりで舞台が雪が降ったようになったり、台詞を忘れた役者さんに、少し間をおいて、「どうした!」「頑張れ!」と声がかかり、傾城阿波の鳴門では「いいぞいいぞ!」と掛け声をかけ、物語に目頭を押さえる人までいました。あれだけの長い台詞を覚えるだけでなく、役により格差はありますが、歌舞伎独特の見栄もあり所作をも覚えなければなりません。周囲の台詞も一緒に記憶すれば物語が繋がるのですが、口で言うほどすべてを覚えるのは容易くなく、そういう努力をしている姿を見ていると頭が下がる思いになります。本番の幕が閉じた後、喜びも束の間、子供の中にはホッとした安堵感から泣き出すこもいたりして、こいうところが大歌舞伎との違いなんでしょうね。ふんわかして温かい気持ちになってきます。

 





 

今週、来週と、8月29日の本番に向け稽古が続いていました。初めて出演する組は「車引き」、ベテラン組は「宵庚申の八百屋」、子供組は「十種香」でした。どれも演技力を必要としますが、台詞の覚えの悪い人には、物語をよく理解して周囲の台詞を把握した上で自分の台詞を暗記するといい、台詞の言い回しの単調な人には、抑揚をつけて話す方法を、と教える師匠のにこやかで優しい手法は見ていて勉強になります。忍耐力も当然必要ですが、一緒に楽しむ姿勢がないと、素人歌舞伎の成功はありえないと感じます。だからこそ38回目を迎えられたのだと思います。

この歌舞伎を使って、ビジネスマン研修や都会の学校の生徒たちの教育の場にするべく、具体案をまとめるため今回は取材を兼ねて参りました。達成感、競争意識、チーム意識、個々の能力など様々な視点からみて、今の時代に大人子供に関係なく必要と思われる要素がたくさんあるのですから。近いうちに発表ができますので、それまでお待ち下さい。

 






美濃歌舞伎博物館 相生座 HP







歌舞伎にすと入門

 

文科系の仕事ではこのところ文楽が続いております。お能や歌舞伎はやめてしまったわけではございません。ちょうど良い充電期間として可能な限り、関係者の方とお話をさせていただいたり、舞台は見るようにしている昨今です。

先日、ある集まりがございまして、東京新聞に連載されている歌舞伎のエッセイを担当されているイラストレーターの辻和子さんがいらっしゃいました。ちょうど、新しい著書「歌舞伎にすと入門」を出版されたばかり。辻さんには、文楽公演やイベントにもお出で頂いたりして、たまに飲む機会もありました関係で、即効というか即興というか、サラサラとサイン入りで似顔絵を描いて頂いてしまいました。辻さん、実際は和服の似合う方で、この日は浴衣でございました。上品で美しい方は何を着てもお似合いになるものでございます。


この著書は、歌舞伎のツボや見所がとても面白く書かれています。イラストもはまっていますから初心者の方には歌舞伎入門書として、また歌舞伎観劇のベテランの方にも楽しめます。ご自身で描くイラストはもちろん文章も洗練されていて、理解度とは反比例いたしますが、夢中で読んでします。


   著の詳細はコチラをどうぞ。




似顔絵ですが、似てるかどうか…。果たして周りの皆さんからは似ているそうで



















アムス雑記




アムスに滞在していて、一番印象的だったのは、古いものを大切にしつつ新しいものを取り入れる、新旧の区別と新旧混在の表現力のパワフルさです。市内での街づくりは13世紀に始まり、今でも古い町並みの景観は、観光客にとって人気の一つです。日本同様狭い土地の中に建物がひしめき合い、隣同士の建物ガくっつき、一緒に傾いている建物も見かけます。内部は天井が低く、階段の幅も非常に狭く、市内で一番小さく見える日本人でさえ窮屈に感じます。世界一身長の高いオランダ人にとっては尚更不便さを感じるのではと思いきや、狭さを卑下する言葉は一切聴かれず、自慢している風さえあります。この古い建物の市街地を抜けると、新しい住宅地も広がり運河沿いにはデザイナーズマンションも建てられていました。

 

市内で目に付くのは古い建物ばかりでなく、自転車の多さです。ヨーロッパ屈指の自転車王国。ツールドフランスで優勝した回数が多いという手のものではなく、多くの市民が日常的に自転車を利用していることです。東京では自転車に乗るビジネスマンやビジネスガールを時たま見ますが、その割合は半端じゃないです。ひっきりなしに通っています。たまに「危ないな〜」と思う瞬間もありましたが。ただ、ほとんど歩行者レーン、自転車レーン、そして車道がしっかり区別されていますので、危険性は法令を遵守している分にはありません。ホテル劇場間は車道が二車線あれば10分もかからないのに、というドライーバー目線にももなりましたが、すべてが平等であり、狭い国土を利用しなければならない現実を見つめるからこそ、車道を広げず、歩道、自転車道を区別して設置する大胆な発想があるのでしょう。アムスには入る直前のパリで、市内の何箇所かに自転車スポットを設置して、いつでもどこでも誰もが自転車が使用できるように工夫をした制度を設けていましたが、なかなかうまく稼動してないんです、という話を関係者の方から聞きました。東京でも自転車利用の構想はあるようですが、果たしてどうなりますでしょうか。

 

我々が公演を行った劇場ミュージック・ヘボウは数年前に出来た建物で、旧市街から車で20分ほど行った運河沿いに、風景とマッチしたデザインで建てられています。市民にとっては自転車で気軽に行かれる劇場でもあります。歴史のある劇場コンセルト・ヘボウは古い町並みの中にあり、存在感はあるものの周囲の建物と調和の取れた中に威厳を放っています。こういった対象は脳内の楽しみ方を区別できる独特な感性があるのでしょう。古いものを修理しながら残し、新しいものも必要であれば、その新しいものが調和する地を選ぶ、日本人の中にはそういう概念を持つ方もいらっしゃいますが、日本ではなかなか実行できない点だと思います。

 



ホテルも同様です。我々が宿舎として利用したホテルも古い建物を4つほど利用し、内部を上手く改造して運営されています。表からは住居の続きのように見えますが、中に入ると、躯体を残し、今の時代に合うよう内装デザインを施しています。古いものでありながらトレンドを感じる不思議な空間でもありました。エレベータは遅いし、なかなか来ない、であるなら階段を使えばいい。トイレは座って用を足すと後ろに寄っかかるだけで水洗されるし。客室内は隣の建物とくっついてるからカーテンは締めっぱなし。窮屈間はあったにせよ、コンシェルジュも24時間常駐していて、10日間リラックスしてステイできたのも、新旧織り交ぜても落ち着くことのできる長い歴史観が背景にあったのかもしれません。



 


ホテルと劇場の往復に毎日バスの送迎はあったものの、乗り過ごしたり時間的誤差が生じるとタクシーを利用することもままありました。車の種類は様々。フランス車、ドイツ車、一部日本車。写真の車は、コンシェルジュにタクシーをお願いして迎車にきたのが、このベンツ。一見するとメーターがどこにもありません。さって、どうしようかと思いきや静観しながら、アムス市内のことを運転手と話をして15分ほどで到着すると、フロントウィンドウのルームミラーの横にあるスイッチを入れました。なんと、そこにメーターがあり11ユーロで表示されているではありませんか。なぜ隠しているのかと尋ねると、インターフェイスとして洗練されているし、観光やビジネスで貸切の時は見えないほうがスマートなんだと答えてくれました。日本にもあるかな〜、こういうタクシー…??

 

こういった思いを抱きつつ、楽しみながら仕事をしております。


小説日本芸譚

 


 

本をネットで買うことが多くなった昨今、目的を持たず本屋さんに立ち寄り、何気に素晴らしい本を見つけることがあります。こういうことがあると、やはりネットではなく、表紙や解説を読んで、自分の五感で決めることも大切と実感します。

 

この本も、本屋さんで目的の書を探しているときふと視界に入り、手に取り目次を見て購入したものです。著書は松本清張さん。下山事件や帝銀事件など社会的テーマを取り上げた「日本の黒い霧」などは実際に起こった事件を本質を見つめて改めて組み立て直していく様に時間を忘れグイグイ引っ張っていかれるようでボクは好きなジャンルの小説でした。「或る『小倉日記』伝」では芥川賞を取られたほどの実力者。単なる推理作家とは一線を画すと聞いておりますが、ボクは「点と線」や「ゼロの焦点」を読んだ程度で、真意は分からないというのが本音です。

その「小説日本芸譚」。目次には「運慶」「世阿弥」「千利休」「雪舟」「古田織部」「岩佐又兵衛」「小堀遠州」「光悦」「写楽」「止利仏師」、10名の芸術家の名前が記載されています。これらは昭和30年代の前半に芸術新潮に連載された短編小説として書かれた、とあとがきで紹介されています。今でも発刊されている芸術系月刊誌に毎月この硬いテーマを書くことに追われていたのでしょうね。知識の豊富さはもとより、短時間で各人物の資料を集めてそこへ意思を伝えていく作業は、あの時代にあってこの語彙表現にやはり確かな知力を感じます。

さて、読人なるボクの知力といえば、「光悦」「写楽」「雪舟」は名前だけ、「止利仏師」に至っては初めて知るという体たらく。「運慶」も「東大寺金剛力士像を作った仏師」程度の知識。時たま好奇心から芸術新潮を購読する割には、ヤレヤレの思いです。
ぞれでも「世阿弥」「千利休」「古田織部」「小堀遠州」「岩佐又兵衛」は仕事柄、以前より多くの文献や小説を捉えていたせいか、清張さんの各人への透視がまた違った角度から働いて興味深く読みました。

岩佐又兵衛は数奇な人生の中で育ち、師らしき人も存在せず人生の晩年になりようやくその方向を見つけた絵師です。父親との相克、母親へのコンプレックス、貧困やプライドを背負った自己との戦いは研究結果から知識を入れておりますが推理した目からの彼もまた実際と空想の狭間で浮遊する面白さを感じます。牛若丸と母の常磐御前を絵巻にした山中常盤は義太夫節を使用した映画にもなりましたが、その絵巻物に描かれるタッチは彼の¥数奇な人生を感じさせます。

世阿弥は能に携わる方や能に興味を持つ方なら知る、足利三代将軍義満に庇護され能を父親の観阿弥とともに大成した人物です。能を完成していく様は風姿花伝などによりその面白さは伝わりますが、義満の死後、義持、義教の将軍の下では栄光の座から引きずり落とされ、佐渡へ流罪とされた後半生における世阿弥の感情を推測する様は、作者により微妙の表現が異なり実に面白いです。

茶の湯の名匠たち、「千利休」「古田織部」「小堀遠州」。改めて説明する必要はありませんね。「秀吉と利休(野上弥生子)」、など、秀吉と利休にまつわる小説や文献は数多く出ています。そこからも町人としての利休と武士である秀吉、侘び寂びの世界を作り上げた利休と黄金の茶会をうった秀吉の成り上がり的な煌びやかな世界を好む秀吉との対峙に面白さがいっぱいです。利休の自刀の様々な理由を弟子たちの目を通して描く、井上靖の「千利休本覚坊遺文」はまた別の角度から利休と秀吉を抉った作品で興味深いです。


小説の底には名匠たちの栄華の裏側にある妬みや焦燥感、プライド、人間臭さが随所に感じられます。 短編で人物を表現する清張さんの力量を改めて思い知らされました。この時代のアーティストに興味ある方には、時代背景といい絶好な教科書本といえましょう。

 

 


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